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関係先インタビュー

INTERVIEW
信頼資本でつながる人たち
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Home 関係先インタビュー がんを通して死と向き合い、生き方を工夫しあう「生き方の学校」

 風伝館で月に2回活動されているともいき京都は、がん患者の方やご家族の支援、そしてご遺族の方のサポートをしている団体です。その代表を務める田村さんの本職は、京都大学大学院医学研究科人間健康科学系専攻 緩和ケア・老年看護学分野教授。普段教室で教鞭をとりながらも臨床を重視して、京大病院で週に1回がん看護に関する治療のアドバイスや、緩和ケアやご遺族の方のケア、さらには看護師のメンタルケアまでされており、幅広くご活動されています。そんな田村さんは、一体どのようにがん看護と向き合い、ともいき京都を立ち上げ、そして何を目指しているのか、インタビューします。

自由で活発な少女時代

 生まれは和歌山県和歌山市ですが、父親の仕事の都合で三重県熊野市という三重県の南のほうの地域で高校まで育ちました。妹とは5歳も違っていたので、1つのものを奪い合うことなく、自由奔放でわがままに過ごしていました。近所の男の子たちと山に行ったり、崖を滑ったり、山の谷間にかくれ家をつくり、大自然の中でみんなでご飯を食べたこともあります。男の子よりも男の子らしい、活発な女の子でした。

 

 父は教員、母は専業主婦で、母は娘2人に手に職をつけて自立できるようにとの希望を持っていました。私は働くことに意欲があったわけでもなく、だからと言って家にしがみついていようという気もありませんでした。もともと絵を描くのが好きでそういう仕事をしたかったのですが、まわりからそんな才能では食べていけないと反対されたので、ある程度親も安心できる教員になるのが良いかなと考え、高校卒業後は四天王寺短大の保健学科に進学しました。

学校の保健室の現場

 保健学科とは言っても看護師になるつもりはなく、そこで教員免許を取ろうと考えていました。そういうわけで学校の保健室へ教育実習で行ったんですが、その当時は落ちこぼれの子が保健室に行くという感覚で、子どもたちが保健室に来て一限目からずっと保健室にいることを不思議に思っていました。そこにいた先生も、強く諭すわけでもなく、今日頑張って学校に来て偉いね、と生徒に言っていましたが、その関わり方が良いのか悪いのか当時の自分には分かりませんでした。でもそこで実習をすると、子どもたちがすごくなついてきて、私の家まで遊びに来てしまうんです。私は自由になりたいと思っていたのに、こんなに私の生活にまで立ち入ってこられると正直困るという感じで、先生は続けられないと思いましたね。

 

 保健室の先生って、骨折した子どもも来れば、心の病気に近いような子どもも来て結構大変だったので、もし仮に私が教員になるとしても、中途半端な知識ではできないなと思いました。保健の教員になるコースでは、医学や看護のことを教えるといっても通り一遍さらっと流すだけで、実際いろんな子どもたちを見ると、これでは求められているものに応じられないと思いました。それで看護の勉強しようと思い、看護学校に行きました。

看護という仕事との出会い

 看護学校に入ると、そこでは私のように軽い気持ちで来ている人は皆無で、みんな資格を取ってそれを糧に食べていくという明確な意志を持っていました。でも、医療の世界では医師を頂点としたヒエラルキーが歴然としていて、底辺であることを初めから覚悟して働くことにどうして一生懸命になれるのかと当時の私には理解できませんでした。でも実際病院で実習などをすると、結構看護の仕事が面白かったんで、数年なら看護師さんとして働いてみるのも良いかと思って看護師として働き始めました。

 

 看護師は保健師助産師看護師法で、一つは診療の補助、もう一つは療養上の世話という大きく二つの仕事が規定されているんですが、多くの方は医師の後ろに立って困ったときにやさしくしてくれるという仕事を思いつきますよね。でも看護の本来の仕事は、実は療養所の世話のほうにあるというのが実際にナースになってから感じました。例えば、病気のある人がこの後おうちに帰ってどういう風に生活したら良いかとか、おうちが遠かったら通うのが大変だけどどういう風に病院に来るのかとか。「暮らし」に看護師の働く力点があるなということに気づきました。人の「暮らし」はみんな違って本当に多様なので、そこが私としては楽しいなと思ったきっかけだと思います。

ホスピスに携わるきっかけ ―― あるがん患者との出会い

 私がホスピスに行くきっかけになったのは、あるがん患者の方との出会いでした。肝臓ガンを患っていた60代の女性で、その方は嫌なことを言ったりできないことをわざとやって欲しいと言ったり看護師にいじわるをしてきまして。その方はもともと一人暮らしで、ガスのつけ忘れなどが多くなってきて危ないということで息子さんのもとに引き取られたらしく、本人は「元気なのに息子のもとへ無理やり連れて来られた」と怒っていました。一方、息子さんはその患者さんと他人行儀な話し方をしていました。なぜだろうと思っていたら、その方は子どもさんたちを置いて駆け落ちしていたらしくて、それで子どもたちにとっては母とはいえ「自分たちを捨てた母」だったんですよ。それでも、他に身寄りのない母がこんな状態になってしまったら引き取るしかなく、息子さんとしても「なんで自分たちを捨てた親の面倒を見ないといけないのか」と怒っている状態だったんです。若い私が見ていても、普通じゃないと思える関係でした。

 

 そんな中、息子さんが「お母さんに病気を伝えて欲しい」と相談に来ました。当時、がんはほぼ100%患者に通告されず、「肝臓がちょっと悪いから入院しているだけで、良くなったら、家に帰るか、息子さんと一緒に住むか考えましょう」と本人には伝えられていました。息子さんは、母親に周りのみんなに感謝してほしいと思っているから病名を明らかにしたいと言っていて、たしかに一理あると思いました。そこで主治医に患者さんに知らせるべきか相談しましたが、一瞬でしたね。「そんなん、ダメに決まってるやん」って。なんにも考えてない感じでした。息子さんの思いとか何も知らないのにそんなことよく言えるな、とびっくりして憤りましたが、当時の看護師にはそれを変えられるだけの力はありません。主治医の判断に「はい」としか言えず、結局息子さんには「お母様がショックを受けられると思うので直接病名を伝えることはできません」と言わざるをえませんでした。

 

 それから1週間くらい後に、「近くにホスピスというのがあって、そこに母を入院させたいと思います」と息子さんが言ってきて、医療する側としてはこれ以上いろいろとモメる前に出ていってもらう方が良いということでトントン拍子で移動が決まりました。医師が患者の人生とか人となりを全く知らずに判断するなんて、こんなしょうもない仕事はやめてしまいたいと思いましたね。 そう思っていたら、お嫁さんが挨拶に来てくれました。どうやら、私がその患者さんにつきっきりになって愚痴とかの吐け口になっていたことをお嫁さんはよく知っているので、感謝を伝えに来て下さいました。話を聞いていると、「母はすごく変わったんですよ」って言っていました。「え、どういうこと?」と思って、その方のお見舞いに行きました。すると、以前は眉間にしわを寄せて嫌なことばっかり言っていたその人が、「よく来てくれたね〜!」って笑顔で迎えてくれて、別人みたいになっていました。とはいっても別に病状が回復したわけではなくて、とにかくそのホスピスでみんなが親切にしてくれたから、穏やかになったということを聞いたんですね。それで、ホスピスっていったい何なんだろうと興味が芽生えました。

淀川キリスト教病院のホスピス

 当時はホスピスの本などほとんどなく、探して見つけた本を読んでも「チームでがんばる」みたいなことが書かれていて、どういうことかよくわかりませんでした。私は一つのことが気になったら分かるまで追究するタイプなので、それで2年間くらい悩んだのち、これはもう行くしかないと思って、それまでの病院を辞めて当時日本で2つだけのホスピスがあった淀川キリスト教病院に1987年に就職しました。

 

 淀川キリスト教病院のホスピスには、経験豊富なナースたちが全国からやって来ていました。そんな最先端のところとは全然知らずに行っていたので、それはもうびっくりしましたよ。そのためすぐにはホスピスで働けず、外来と救急外来で2年間働きました。外来で、同じ志の看護師さんたちと一緒に働きながら、ほんとうにホスピスで働ける日が来るのか、でも辞めたら二度とここでは働けないだろうな、と思って頑張っていました。

 

 当時のキリスト教病院はとてもアメリカナイズされており、日本の一般的な病院とは全く違っていました。例えば「看護部長さん」ではなく、「〜さん」と名前で呼んだり。日本の医療の中にあるヒエラルキーを疑問に思っていただけに、そんなフラットな関係がとても新鮮でした。ほかにもアメリカから来たミッショナリーが出入りしていたりもして、とてもインターナショナルな雰囲気でした。もともと自由を求めていた私にとってそれが良い印象で、とりあえずここで働きたいとは思っていました。

専門知識をもって自律的に働くナースたちとの出会い

 淀川キリスト教病院では、当時はサマーバケーションという考えがはっきりしていて、8月は会議とかが一切なく完全に休みで臨時の会議とか全くなかったので、夏休みに休みを固めて2カ月もアメリカに行ったりしていました。アメリカでは看護が学問として進んでいましたが、日本では弟子教育の域を超えず理論に対する実践方法について深く教えないんですよね。なのでアメリカでそれを学びたくて行きましたが、そこではキリスト教病院のスタッフ以外は大学の偉い先生ばっかりで、学会みたいな感じでした。また、当時はエイズが知られ始めていたころで、そこでの授業でもエイズの話者の方が居ました。手を差し出されたんですが、日本では感染性があると言われていたんで、握手できませんでした。学んでいくうちにそうじゃないと分かったんですが、それくらい日本とアメリカでは知識に差がありましたね。

 

 また、短期間イギリスに行ったときに、マクミラン財団というがんなどの緩和ケアで有名な財団の看護師さんたちと出会って話を聞いたんですが、そこの人たちは医師の指示に従って動くのではなく、専門的な知識をもとに自律的に行動して、プライドを持って看護という仕事をしていました。一方当時の日本ではホスピスのなかでも医師を頂点としたヒエラルキーがあって、看護師は正直なところ医師の指示がないと何もできなくてプライドが持ちづらいという現実がありました。看護ケアを中心としたより良いホスピスケアをするためには自分で専門的な知識や技術を身につけて自律的に行動する必要があると思い、キリスト教病院を休職して、大学院に進学しがん看護の勉強をすることにしました。がん看護と本格的に向き合い始めたのは、このころからです。

がん看護において大切にしてきたこと

 看護においては、相手の語りをよく聞いて、相手の想いの宛先になるのがとにかく大切だと思います。患者さんの言語で語ってくださることはそのまま聴きますが、言語化できない思いもたくさんあるんですよね。言語化できない思いをどう聴き取るか。また、患者さんの中で思いにならない思いもありますよね。それが言葉になるためには私の中に何らかがあって、経験があって、ちょっとひっかかる。でもそれは私の何とつながっているかわからない。つながってくると上手く言えないけれどこんな感じかなと思えるようになる。私の中でかたまり、形になると言葉にできる。その前段階の思いを聴き取れるかが大切だと思っています。その際に、お互いの誤解を避けるために、できれば患者さんからも見える形(言葉)にして伝えて、確認してもらい、そうして見える形になった後で、その思いに応えるために何をしたら良いのかということを一緒に考えていくことを大事にしています。

 

ともいき京都の立ち上げ―― 信頼資本財団との出会い

 10年くらい前から、病院の枠を超えたがん患者のサポートができないかと考えていました。というのは、看護師はとても忙しいし、私もずっと白衣を着ているため気軽に話しかけづらい印象を持たれていたので、それまでのサポート体制の限界を感じていたからです。病院にそのような相談業務をしてもいいかと提案したんですが、病院は当然ですが営利なのでお金を生まないことに対してはそれほど労力はそそぎこめないということでした。病院の外でがん患者が気軽に相談できるサポート体制づくりをやらないといけないと思っていました。

 

 そんなとき、京大の教員に応募しないかと声をかけていただいて、病院内ではスタッフがNPOを立ち上げたりするのは難しいけれど教員であれば大学に事務所を置かず兼業届けを出せばできるいうことだったので、チャンスだと思って京大に来ました。京都は初めての土地で完全にアウェーではありましたが、病院でがん看護を実践している方と知り合って、私が取組みたい活動について話すうちに次第に賛同が得られていきました。でも、開催する場所がありませんでした。お金を出せばあるけれど、お金がないので困っていました。そんなときに偶然おもしろそうと思ったイベントの開催場所が風伝館だったんです。こんなところを借りたら高いかなと思って調べたら無料ということで驚いて、無理かもしれないけれどトライしてみる価値はあると思って電話しました。

 

 当時、会議目的だとすぐ借りられたので、風伝館を借りて、5月の連休で雨の中ではありましたが20人くらいの方が来てくれました。ほどなく2016年7月から開催することになりました。開始後、私の中ではアイデアがあふれている状態だったので、この活動をするにあたっていかに定期的に開催することが大切かを綿々と書き連ねた申請書をすぐに理事長に提出しました。それで私たちの活動を理解していただいて、共催というかたちにさせていただきました。改めてやっぱり諦めないことは大切で、やってみて駄目だと思ったら考え直すという覚悟が必要だと思います。

ともいき京都を「生き方の学校」へ

 ともいき京都はがん患者を主体にスタートしましたが、がん患者さんの在り様はこれからの日本の高齢者の生き方のモデルだと思うんですよね。がん患者さんは病気になったあとどのように生活するべきかというのを、年齢でなく病気のために否が応でも考えないといけない体験をしている集団だと思うので、その人たちが病気を持ちながらこういう生活がしたい、チャレンジしたい、というのはこれから日本で高齢化が進んだときに必要な知恵になると思うんですよ。がんという病気は、人生のなかで自分の責任でないところで起こっていることなのに、なんとなく社会から重荷を負わされていて「こんな工夫がある、こんなことができる」と気軽に語り合えない現状があるんですよね。

 

 いずれ、いろんな生き方の工夫を話し合えるようにするために病気じゃない人たちにもここをオープンにして、若い人でも病気をしていたらこんなに頑張っているだとか、老いという苦しみの中でどんなふうに生きがいを見つけていくかとか、そういう知恵がクロスするようになる仕組みをつくれると良いなと思います。ひとことで言えば「生き方の学校」ですね。

 

 ホスピスでいろんな方の最期を見せていただきましたが、結局亡くなっていくときは一人です。「最期に一人で生きていくためにどうしたら良いのか常に考えないといけない」というメッセージを患者さんからずっと貰い続けて来ました。いろんな生き方を教えて貰ったので、それに応えて私自身後悔しない最期を迎えることが、患者さんたちへの最大限の感謝のかたちだと思っています。なので、誤解を恐れずに言うならば私自身のために働いて、自分のためにともいき京都を開催して、どう生きてどう死ぬかを常々考え続けていきたいと思います。