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【イベントレポート】立教大学×信頼資本財団 公開講演会 『信頼社会への挑戦』(2011年10月23日)レポート②
-シンポジウム■パネラー
内山 節 氏(うちやま たかし/立教大学21世紀社会デザイン研究科・文学部教授)
熊野 英介 氏(くまの えいすけ/公益財団法人信頼資本財団理事長)
中村 陽一 氏(なかむら よういち/立教大学21世紀社会デザイン研究科教授)
■コーディネーター
石川 治江 氏(いしかわ はるえ/立教大学21世紀社会デザイン研究科教授/公益財団法人信頼資本財団理事)
熊野 英介 氏(公益財団法人信頼資本財団理事長)
熊野 :OECDのデータを見ると、日本では衣食住足りても満足感を持っている人が少ないですね。
日本で昔から変化の前提の中で育んできた価値観。それが、どこか近代で、発展しなければならないという価値観に支配されてしまった。
民衆に正確な情報を与えれば正しい選択を行えるという前提で、戦後民主主義は来たんです。
が、民衆は決断を先送りするばかりで、そんな民主主義は何なんだという問題がある。
また、民主主義的な多数決という方法で、ほんとうに公平な分配ができるのかという仕組み的な問題もあると思います。
やはり、関係性の周辺のなかで自分を確認するということだけでしか孤独はなくせない。関係性の中で自分というものを感じる。今の仕組みの中ではそれが不自由になっているんじゃないかと。
震災を起点にして、「もう一度つながる」ということを感じる。
生と死と社会の間の見直し。これを、今生きている時代だけの価値観だけでなくて考えるということじゃないかと思います。
中村 陽一 氏(立教大学21世紀社会デザイン研究科教授)
中村:上から束ねない感じの運動論をどうするか、ということですね。同時にスピードも必要ですが、そのようなことを考えたときに、既成概念をどう壊したり、ずらしたりするか。
自立した個人による市民社会ということは理想的でもありますが、結局のところこれは強い個人しか生きていけない社会であったりもする。
少なくとも、現時点では、安易に自立した個人による市民社会と言ってしまうと、差別や格差の問題に結びついてしまう。
社会デザインとはなにかというと、形をただつくるというのではない。本質的なことを考えるということだと思います。
社会デザインが万能であるわけではなく、そのデザインの主体というものをよく考えることが大切。
今の社会で言われている主体でない主体を考える、ということが重要かなと思います。
また、(左上の)イデオロギーがいろいろある中で本当に正しいものは何なのか、ということを決めるのも難しいということになった。
そこで、(新しい豊かさ・幸福と書いてある)図の右上のような社会にしていくのはどうしたらいいかなということになりました。
石川 : あの、内山さんがおっしゃられた「等身大」というキーワード、それがなんなのか。
そのなかの関係性についてもうちょっと語ってほしいと思うんですが、内山先生どうでしょうか。
内山: 人間のあり方というのはとても矛盾に富んでいるわけで、等身大と言ったからって、この等身大の中に行ってしまうと、その瞬間、等身大の世界というのは見えなくなってしまう。
「等身大の関係」の世界、それは見えなければ、触れられなければいけない。そしてそのなかにいる自己を見つけなおすっていうんですか。
戦後教育で個を大事にするということを重視したのは間違いなんです。「個人」が大切なんではなくて、個が結び合って、大切にしあっている、ということじゃないですかね。
中村:
今語られている愛とか絆とかは、今の大衆が"砂のような大衆"といわれるように、個々がバラバラになっているからこそ、それが強く希求されている。
今の学生さんはものすごくコミュニケーション能力が高い、というのを感じる。
それはそういう個と個の関係性が、見たり触ったりできないものの中にいるから、そこを求めているということが感じられます。
だからといって愛、絆が語られるのは、なんか変な感じがします。
熊野:
関係を大事にするということ。これを言い方を変えると、迷惑をかけるな、という言い方になると思うんですけど。どうですかね、そんなこと言ったって、みなさんそういうことできますかね(笑)
監視社会と信用社会が入れ子のようになっているのがこの日本だと思うんです。
被災地に入ってまず助け合う、ということをやったんですが、落ち着くにつれ、近親憎悪っていいますか、近い者同士で分裂し合うということがあるんですね。
日本では、何かが起きた時にそういうものが入れ子のように出てくると思うんですね。
正義と正義がぶつかり合えば争いになると。
人間社会で、おのずから共感したり、助け合うということの仕組みがあれば、社会性を帯びてくると思うんです。そういうことがなく、教育の正しさ、モラルの正しさということになれば戦ってしまうということですね。
石川: もう一つ気になったキーワードは"既成概念崩し"ですね。
今までの既成概念の仕組みの中で、弱者というのがどんどん増えている。
今までのやり方でいこう、というのは無理だよね、とみんながわかっている。
それなのに一歩踏み出せない。
そこで中村さん、既成概念を崩すということをもうちょっと教えていただきたいんですけれども。
中村: 今、震災復興の現場とかで、創造的復興と言ってる。なんだけれども、結局経済発展であるというところを出てないんですね。
経済学者の松原さんが言ってたことが面白いんですけど、3.11以降も経済学者や財閥の概念は全く変わっていない。「経済の理論は全く被災していない」ということなんです。
社会デザインというところでは、コミュニティということを推し進めています。
しかし、被災地なんかでは、コミュニティを進めていこうという考え方と、コミュニティなんて嫌いっていう考え方がぶつかり合うわけです。
そういう時に、どうしたらコミュニティとプライバシーというものをもっと高い段階で共生させることができるのかな、ということが問題ですね。
内山: 共同体の中では、概念というのは必要なくて、そういうのは自然と共有される。
近代では価値というのが個人個人で決めるものになっている。
ですが、個人では善悪が決めきれず、善悪は国家や専門家が決めるものになってしまっている。それが既成概念の問題になっている。
今の時代、日々の生活が自然環境破壊につながったりすることがある。
みんなでよかれと思ってやっていることでも、その善悪は言えないという時代である以上は、絶えずいろんなものを疑いながら行くしかないんです。
しかし、その疑っていく主体はどこにおいたらいいのかということを議論しなくちゃいけなくて。
共同体とか関係とかそういうものに主体を移さなきゃいけない。
個人としての既成概念崩しということだけではなくて、崩していく主体が誰かということについて考えてかなくちゃいけない。
中村: 主体という病というのは、今生きる全員が抱えている問題だと思いまして、と同時に、何がいいことで何が悪いことかという問題を、共同体が示してくれる時代ではない時代です。
善悪を分けるものを(国家など)大きなものに拠ると、戦いになったりする。
比較的小さな単位をベースにして広げていくしかないという考え方があるが、それだけじゃなくて、それを広げていく中間団体をどういう風にしていくか。丁寧に一つ一つの問題解決をやっていかなければいけない。
熊野: 内山さんの等身大というのは、「言い訳できないよ」という関係の問題なんですね。
そこで主体のユニットをどうするかという問題です。
利潤的動機だけじゃなくて、社会的動機でうごく仕事をやる。
もう一つは、国民国家ではなく、言い訳できないユニットの単位で社会的なことをやる。
石川: エネルギー、あるいは経済という問題に向けたときに、情緒という問題だけで語れないですね。そこらへん、どうなんでしょう。
中村: 震災で、民衆知、土着知がかなり傷ついていたことがわかった。専門知に至っては地に落ちたといってもいいと思います。
今、私たちが専門的なものに対して持てているグランドセオリーはないと思うんですね。
再生可能エネルギーが信頼されない、そこに立ちはだかるのが経済的問題などです。
そこで、共感を得られる土俵をどこにするか。
まったく新しいことを夢想するのじゃなくて、オルタナティブに、今あるものをどうやっていいものにしていくか。
そういう風に議論を進めていかなければならないと思います。
内山: 「安全神話に騙された」という論拠はやっちゃいけなくて、この論は戦後の「軍部に騙された」と同じです。
これは要するに今まで私たちがそれをまじめに考えていなかったということなんです。
今はどんなことでも受益者か被害者の立場に位置付けられてしまう。
受益者になるか被害者になるかしか立ち位置しかない。この関係はすぐに転倒してしまう。
しかし、あなたは受益者ですよ、と言われれば誰も反論しないし考えない。
でも自分が本当に受益者か被害者かはわからないんです。
もう一度、エネルギーが共有物である、ということをどういうふうに作っていくかということを考えなければいけない。
経済も同じです。
であれば、共有の単位はどうするか、我々が管理しうる共有の単位はどのくらいかということを真剣に取り組んでいかないと。
被害が起きた時だけ声を上げる被害者になるというのは、もうおわりにしなきゃいけないということです。
中村: 例えば医療なんかそうですが、私たちは一つ一つのことを専門家に任せて高度化を遂げてきたわけです。
しかし、どうやったらここから抜け出せるか。
というときに、地方自治体なんかにはそういう事例がある。あるけれども、それが単発なんですね。続いていかない。
だから、そいういうところから広げていけばいいと思いますね。
熊野: 人間の尊厳を守る、というシステムを核にして考えなければいけないなと。
高度成長はいかに効率にするかということで回ってきたわけですけど、非効率的でもいいから高効果的な配分の方がいいのではないかと。
たとえば、ある大学の人に話を聞いたら、新しい技術と節電することで理論的には30%電気の消費量が減らせる。
そういう「新しい価値」を作ることで、一時的には非効率で不経済になるかもしれませんが、持続的に効果があるものができれば、そういうのを取り入れる。
そういうのを人間の尊厳を軸につくれればいいとおもいます。
今はみな科学が正しいということを信じさせられている。
でも実はアンコントロールの下にいるというような。
それを人間の尊厳というところを軸に新しい価値を作っていくと。
石川: 結局、変えていく、再構築するということでいいのでしょうか?
それならそれをどうやってするのでしょうか。
内山: じゃあ来年に貨幣を廃止するとか、電気のシステムをなくすとかいうことはできない。
ここまで来ると、何をするにも覚悟なくしてはできない社会になっている。自分たちでここまでやって、次の世代に渡すという覚悟がないといけない。
熊野: 我々が今メインにしている概念をサブに落とせるか。
エネルギーなんかも目の前にあるものを共同体で徹底的に使っていかなくてはいけない。
近代の大量消費では、不要であるものは社会から外れると。
そこで不要であるということを決める正体はなんなのか、ということを考えないと。
価値とはなんだろうかという根本的なところから考えないけない、ということだとおもいます。
中村: 100年はかかるといわれたものでも、コツコツやっていけば、残り90年、80年というように確実に進める。
また、さっきと言っていることがちょっと矛盾しますけれども、"不穏当なファンタジー"を胸に抱くもの、すなわち馬鹿者のような立場の人間が、夢を言い続けていることが必要だと思います。
文化、アートといってもいいですが、生活様式としてとらえるような文化、というものの可能性をもう少し突き詰めていったときに、今の社会のありようをいい意味で突破できるかもしれないという可能性を感じています。
石川: 内山さん、私達はどうやって覚悟というのをすればいいのでしょうか?
内山: 今は管理される社会だから覚悟はいらないんですが、ほんとは全てのことに覚悟が必要なんですよね。
これから覚悟は必要になるので、心配しなくてもいいと思います(笑)
